自由空間の間取り aki23star.exblog.jp

木漏れ日の隙間から。日々の出来事をジャンル等問わず自由気ままに綴ります。 不適切な書き込みはご勘弁を!


by aki23star

④ 激動の3週間・・。

同部屋だった親父が、3日目には呼吸器科専門病棟がある6階へ・・・。
奇跡の同室・同部屋は、たった二日間だったけれど、今では大切な思い出になってしまったんだよな・・。

親父は膠原病だったんだけど、膠原病には色々と、まだまだ現在の医学では解明されておらず、所謂、不治の病の一つでもあるんです。
親父は、心外膜疾患の 心外膜炎。
原因はウイルス感染、膠原病、腫瘍、心筋梗塞、外傷、大動脈解離などいろいろあります。
心膜液が貯留することが多いとのことですが、確かに親父はレントゲン検査をしても影が映っておりました。

あれだけ歩いて運動していた親父でしたが、昨年夏ぐらいから殆ど散歩にもいかなくなりして。
心臓に負担が大きくかかってきて辛かったんですね。きっと、あの頃から・・・。
また、同じ膠原病の中の一つにある 強皮症も発症しておりまして・・・。
NETで調べてみたところ、これが心外膜炎に繋がるんです。
親父は、真夏なのに寒がっておりました。部屋に入ると暑くて暑くて・・。
冬のような恰好でいましたが、これも強皮症が原因。そして、大変だったのが、睡眠中のこむら返りです。
足が攣る。これは自分も経験がありますが、寝ていていきなりきますと、半端ない痛みで・・・。
太もも部分なら更に痛みが激しくて痛くて・・・。
親父は毎晩足が攣ると言っておりましたが、さぞかし辛かったことでしょう・・・。
また、足の浮腫みが異常でした。
現在、自分も薬の副作用で足が浮腫んでいる状態なのですが、足が酷く浮腫むと
確かに歩き辛くなります。ふわふわして安定しない感じなんですよ。


病室が替わりましたが、自分はその頃には車椅子での移動許可を貰っておりました。
慣れない車椅子。腕の力だけで動かすのが大変で・・。
何しろ腕の筋肉がまったく無くなって、骨しか見えないくらいに細くなってしまった腕です。(-_-;)
パラリンピックの出場選手の凄さ。努力の凄さをまさに感じまくりましたが、まだまだまったく力が出ない自分。
車椅子での歩行も慣れないので、真っ直ぐ進めるのも最初は大変でしたが。
日に1度、2度は親父のいる部屋に行ってましたね。こんな機会でないと、逆に話す機会もありませんでしたから。

最初は元気そうな親父でしたが・・・。容態が急変しました。
酸素吸入器を着けられステロイドを打たれ、他にも半本化の点滴注射を打たれて。
苦しそうな親父の姿・・・。見るに堪えられないんですよね・・。可哀想で・・。

妹から伝えられました・・・。

「お父さん。もって数日だって・・・。」と。

力が抜けてしまいました・・。あの苦しむ姿を見れば・・・。

その日の夜。親父の主治医のまだ若い先生が、自分の病室まで来てくださり、親父の現状況を説明してくれたんです。
状態としては、最悪の二文字でしたが。
非常に丁寧でわかりやすく、人柄溢れる対応に感謝。もう先生に委ねるしかないですから。
「最後まで宜しくお願い致します。」これが精一杯の自分でした。

親父が亡くなる前、再び親父の主治医の先生が自分の病床まで来てくれました。
後に、妹から聞いたのですが、この主治医の若い先生。親父の状態を妹に説明しながら涙してくれたそうです。
患者の死に対しては、職業柄、慣れてしまっている大病院勤務の先生ですから。
妹から話を聞いた時は、ある意味感激しました。有難いなと。


親父がもって数日だと告げられた日。
親父の病室は、ナースステーションの前でしたね・・・。
これは所謂、先が長くない重体患者がいる部屋になります・・・。

部屋の中は温かくて、親父の寒さを考慮した環境状態となっておりました。
親父は容態が落ち着いていて、普通に話が出来る状態。
落ち込んでいても顔には出せない自分でしたが、親父は既に悟っていましたね。

「もう俺が長く生きられないことは、俺が1番わかっている」
親父が言ったこの一言。
正直。自分はこの親父の一言にすごく気持ちが楽になったんです。

「わかった親父。じゃあ一つだけ聞く。」
「親父!未練や悔いはないか?」

「ない!」

親父が言ったこの返事。
親父の凄さ。頼もしさ。偉大な親父。尊敬する親父ここにあり。
あらためて親父は大きくて素晴らしくて。凄いと思いましたね。
自分は親父を越そうと。二代目は駄目だと言われたくなくて、頑張っておりますが・・・。
親父の言葉に、やはり親父は偉大過ぎて、とても越えられないなと思いました。

親父の「ない!」の一言に、自分は素直な思いを包み隠さずに伝えました。

「よし。わかった。じゃあ隠さない。正直に話す。」
「後のことは何も心配いらない。お袋のことは任せておけよ。」
「兄弟も親族も、俺がいるから案心していい。仲良くやっていく。」
「親父が何一つ心配することがないよう、俺が仕切るところは仕切っていくからな。」

親父は言いました。
「何も心配していない。お前たちがいるから。」
「お前は俺のことよりも、早く治せ。」

ここなんですよね・・・。
こんな状態の自分です・・。何も出来ない状態なのに、何て言う説得力の無さなんでしょうか・・・。
情けなくて情けなくて・・。目茶苦茶やってきた付の大きさを悔やむばかりで。

元気な時間。親父には少ない時間でした。
お見舞いも多くて、身内にひ孫が多いこともあり、やはり疲れるようでしたね。
お袋が、お父さんが疲れてしまって・・・。とこぼしていました。
確かに自分は遠慮して、朝と夜の数分でしたが、少ない時間で親父の部屋に行ったなぁ。


3月 2日(金)この日は、ひな祭りの前日。
夕方。妹から連絡が・・・。
「お父さん。苦しくなってもう我慢することの限界がきたら、導入剤を投与してもらう。と言っている」と。
苦しいのは親父本人。誰も異論はありません。
導入剤を投与することにより、苦しみが和らぎながら息を引き取っていくそうですね。
日本では安楽死こそ認めてられませんが、苦しみが和らぐのであれば、少しでも親父が楽になれるなら。

少しでも親父と一緒にいたい。
親父の部屋に車椅子を漕ぎながら急いで行ったなぁ・・。
親父と共有できる時間は、もう限られていますから。

元気のない親父でしたが、徐に腕を捲り上げて、いつも身に着けている腕時計を外しました。

「これ使ってくれ。」と。

所謂、形見分けですね。いつもはめていた腕時計を自分に使えと。苦しいのに自ら外して手渡してくれたんです。

④ 激動の3週間・・。_d0046942_15425454.jpg

今。この腕時計は、入浴時以外は外さずにいます。
親父は亡くなってしまいましたが、時計の針は元気に動いています。おそらく自分は今後はずっと使用し続けていくことでしょう。


しかし・・・。その時は早く来てしまいました。
ひな祭りの日。 3月 2日(土)酸素吸入とステロイド。かなり辛そうな親父・・・。
一旦自分の病床へ戻った自分でしたが、直ぐに妹から電話が入りました。

「お父さん。導入剤を入れてくれって。苦しそうだし見ていられない。お父さんの希望通りお願いしたよ。」と。

我慢強い親父が我慢することがきつい状態。願わくば少しでも苦しまずに召されてくれたら・・・。
しかし。導入剤を投与してから、どれくらいの時間で息を引き取ってしまうんだろう?
看護師さんに聞きましたが、帰ってきた返事は、「その人によって違うから、一概に時間は決まらない」とのことでしたね。
確かに個人差はありますので、自分としても納得しました。

そして、3月 3日(日)ひな祭りの日でした・・・。

この日もお見舞いにくる人数が多く、少しだけ元気にしていた親父も、最後は疲れ切ってしまった状態・・・。
自分は遠慮がちに見舞いに顔を出すも、短時間で部屋に戻ります。
「何かあったら直ぐ呼びに来てくれ。」と頼んで。

入院時。なかなか寝付かれない自分でした。
同室の患者さん達。晩御飯を食べ終え、少々休憩?したら、20:00 には就寝しているようで・・・。
自分は、ベッドでの就寝癖は何十年も前からなくなり、ベッドが最後まで慣れませんでした。
いつも最後まで起きておりましたので、イビキの音にも悩まされてしまい、余計に寝付かれない始末。(-_-;)

しかし。この日は自分なりに疲れていたのでしょうね。
夜中に妹と姪っ子二人が、病床に来て。

「お父さん。もう残された時間が少ないから、お兄ちゃん迎えに来た。」と。

車椅子に乗せてもらい急いで親父のいる病室へ駆けつけました。


親父は本当に苦しそうにしていましたね・・・。
後から聞いたのですが、導入剤がまったく効いていなかったとのことでした・・・。(-_-;)
苦しかっただろうに・・・。最後まで我慢強い親父だった。

親父が何か言いたそうだった。
自分は親父の手を握り。「先日約束したことは、ずっと約束通り実行していくから安心してな。」とあらためて親父の耳元で伝えました。

親父が掠れた声で、最後の遺言となりましたが、二言だけ自分に託すように言ったこと。
これは記載しませんが、仲の良い親子なら自分にとって当然のこと。
「心配しなくていい!任せろ親父!仲良くやっていくから何も心配するな。」と。

妹も弟も泣き崩れる中。お袋が親父のことをこれほど深く愛していたんだな。と。
お袋の親父にかける言葉の一言一言が、愛を感じさせてくれる言葉ばかりで感動しちゃいましたが。
親父の俺に託した二つの遺言。
まさしくお袋に対してのお願いが、親父のお袋に対する愛情の深さを物語っております。

息を引き取る最後は、昔の5人家族で。


普段でしたら孫達もひ孫たちも病室にいて賑やかで、逆に疲れてしまう親父。
しかし。息を引き取るまでの残された時間。
この限られた時間は、昔の5人家族になれました。
こんな瞬間はありませんね。
懐かしい昔話を話すうちに、幼い頃。親父も若くて元気だった頃。
兄弟3人ですが、それぞれ親父に叱られたことや、殴られたこと。
滅多に叱ったり怒ったりしなかった親父でしたが、妹や弟から聞いて、自分が知らなかった話もあって。
思い出話で一瞬だけですが盛り上がりました。

時刻は午前 0:00 を回り、日時は、3月 4日(日)
親父の足をさすりましたが、強皮症による足の浮腫みは相変わらず酷い・・・。
少しづつ意識が遠くなっていくのでしょうね。そんな感じの状態が続きます。

そして・・・。
容態が急変したのが、午前 2:00 過ぎでした。
親父はもう苦しくて苦しそうで・・。
何かを伝えたいのでしょう。しかし、言葉に出せなくて・・・。
見ていても歯がゆいばかりの自分でしたが・・・。

最後は眠るように息を引き取っていきました。
医師が入ってきて、3月 4日(日)午前 2:20 ご臨終です。
と一言。

徐々に冷たくなっていく親父の体・・・。
亡くなってからでしたが、強皮症による足の浮腫みが無くなってきました。
親父の体を一生懸命に拭って清める弟。
誰よりも親不孝をした弟でしたが、親父は可愛がっていたんですよ。
あの弟の姿を見て、親子の愛情っていいなと。つくづく思った自分でした。
入院時。お袋以外に誰にも体を拭かせなかった親父だったそうですが。
弟に拭いてもらって嬉しかっただろうなぁ。よく温泉に泊まりでいっていたんだけれど、1度も背中を流す機会がなかったと・・。
後悔していた弟だったからな。

まだ体力のない自分・・・。
部屋に戻って床に就きましたが、親父との思い出がどんどんと蘇って来て。
それでも、何故だか流れてこない涙・・・。何でだろうか・・・?

お通夜の日時が、3月 5日(月)に決まりました。
午後 7:00 から始まります。
自分は外泊許可を貰い駆けつけましたが、晩御飯を病院食で済ませてからの参列。遅刻になってしまいますが・・。
少しでも時間を短縮させたいと思う気持ちは、誰もが同じですよね。
頑張って、駆けつけましたが、既に、おっさまはお経を読み終え入り口ですれ違う始末・・・。
会場へ入ると親族の方々が集まっていて、自分の車椅子での情けない状態に、一同が注目・・・。
妹から、「最後の挨拶を頼んでいい?私、何を言っているのかわからなくて・・。」と一言。

正直。このようなことは慣れております。
いきなりでしたが無事に挨拶も済ませ休憩していると・・・。

来るわ。来るわ。(-_-;)
親族の殆どの方々が自分へ一言伝えに。

「お前がそんなんでどうする?頑張って早く治せ。」
「お前が元気になって親父を案飲させてやらないと!」
「まだ若いんだからな。まだまだ頑張らないと。」
「健康でいられるから頑張れるんだぞ。早く元気にならないとな。」
「まだ落ちぶれる歳じゃあないだろ。早く元気になれ!」

同じような励ましの言葉をいっぱい頂きました。(-_-;)
でも、本当にその通りですね。




会場入り口に飾ってありました。

④ 激動の3週間・・。_d0046942_16380189.jpg

バイクに跨る親父の画像はアップしましたが、画像の下に写っている帽子とグラス。
これは親父のお気に入りだったそうです。
そうそう。もう一つの腕時計は、自分に分けてくれましたのでありませんが。
思えば、親父は帽子が好きでしたね。
靴も下駄箱いっぱいに入っているし。また貰ってこよう。
サイズが同じでしたからいいかもです。

しかし。何度も記載してしまいますが、親父のバイク姿が格好いいです。
親父の死様。
不謹慎かも知れないですが、血圧の数値が0になってから、3度も数字がいきなり 78 とかに上がったり。
それも、話の切れ目にタイミングバッチリに。

お通夜には十年振り以上で会った親族も参列してくれました。
懐かしかったですね。こんな時にしか会えないのが現実なのでしょうけれど・・。
昔。夏休みや冬休みになると、いつも一緒に遊んだ従兄弟のお兄ちゃんも、後2年で定年だと言っていたなぁ。
この従兄弟のお兄ちゃんも糖尿病らしいけれど、毎晩晩酌は欠かしていないそうでした。
まあ。酒は旨く付き合えば百薬の長となりますからね。(笑)

明日は午前 11:00 から告別式となります。
自分は自宅に戻って休むことに。
親父とは少しの時間お別れですが・・・。

親父が眠る棺を、皆が宿泊する部屋へと移動させていました。
最後のひと時を一緒に過ごすために。
















by aki23star | 2018-03-22 16:54 | 糖尿病